英国海外航空スチュワーデス

杉並区の善福寺川に首を絞められた若い女性の死体が上がった。
被害者は、英国海外航空スチュワーデス武川智子さん(27)。
容疑者として、武川さんと交際していたとされるベルギー人神父
ベルメルシュ(38)の名前が挙がった。


警視庁は、相手がカトリック教団サレジオ会の神父であることから、
国際問題に波及してしまうことを恐れて慎重な、弱気な態度をとっていた。
カトリックは世界でも戒律に厳しい宗教として知られており、この事件は
注目を浴びることとなる。
極秘の捜査を重ねた後、神父の出頭を要請したが、本人も教会も出頭を拒否。
世論から批判の声が上がったため、神父は二、三度出頭したものの、
胃病と神経衰弱を理由に歳暮病院に入院。
6月11日、警視庁に連絡もせず、イタリアに帰国した。
サレジオ会は傘下の社会事業団を利用して、アメリカから回された救済物資を
闇ルートに横流しし、莫大な利益を得ていたという。
神父の帰国により、事件は迷宮入りした。

サレジオ会は、北イタリアの司祭ヨハネ・ボスコによって1859年に結成された
カトリック修道会。
会員数の規模はイエズス会に次ぐ。サレジオ修道会とも呼ばれる。

■1959/5月7日■
外人神父出頭せず
スチュワーデス殺し事件の捜査本部は、去る5日からベルギー人神父(38)に
重要参考人として任意同行を求めていたが、6日も同神父は出頭しなかった。
同日朝は「高井戸署に出頭する」との態度を示していたが、 午前9時ごろになり
電話で「気分がすぐれないので行かれない」 とことわってきたもの。

■1959/5月12日■
神父から事情聞く
この日出頭要求に応じた同神父は、午前7時ごろ捜査本部の指定した場所に
弁護士同伴で姿を見せた。
同神父は知子さんと交際のあった人物の一人で、本部では参考取調べのため
さる5日第1回の出頭を求めた。
ところが神父はこれに応じなかった。


■1959/5月24日■
入院したベルメルシュ神父
「渦中の人」となったドン・ボスコ修道院内ベルギー人ベルメルシュ神父(38)は
22日、過労による衰弱がはげしく、新宿区下落合の聖母病院に入院した。
しかし、捜査本部は同神父が事件に関係があったかどうかについてはまだ断定せず
「調べは完全に終っていない」といっているので両者の間にはいま微妙な空気が漂い
始めている。

■1959/6月12日■
ベルメルシュ神父が帰国
スチュワーデス殺し事件の重要参考人として、 事件の捜査線上に残った
”最後の一人”といわれた ベルメルシュ神父が11日夜ひそかに帰国したことについて、
警視庁捜査当局ははげしい驚きと教会側のやり方に強い不満 の色を示している。

【アナタハンの女王事件】

【アナタハンの女王事件】

概要


終戦を知らずにマリアナ諸島アナタハン島に取り残された32人の男性が、たった一人の女性をめぐって殺し合った事件。
すべての原因として処刑されそうになった比嘉和子さんが米軍に救出された昭和25年までの6年間に、11人が命を落とした。
敗戦も知らずにジャングル暮らしをしていた19人の日本人の男性に囲まれていたことから「アナタハンの女王」と呼んだ。

サイパンへ移住して家業の手伝いをしていた比嘉和子は友人とパガン島へ渡り、カフェの女給として働いていた。
18才の時そこで知り合った男性と結婚、22才の時、南洋興発に勤める夫の新任地であるアナタハン島へ。
戦争がはじまり、夫が用事でサリガン島へ出かけた後の昭和19年、海軍に徴用され、
空襲によってはぐれた漁船がアナタハン島に停泊し、島の日本人は32人の男性(兵隊10名、
臨時徴用の船員21名、南洋興発社員1名)と1人の女となった。
彼らは生きるためコウモリやトカゲを捕らえ食った。料理は比嘉が、全員が生きることに必死だった。
食べ物を求めるために駆けずりまわる生活には、身だしなみなど関係なかった。
原始人のような生活の中で、男達は全裸、比嘉も上半身をあらわに腰ミノひとつという姿で島を歩きまわった。
しばらくは集団生活をしていたものの、そのうちに夫が戻らない比嘉をみんなが狙うようになる。
そのため年長の者の助言で比嘉はある男と夫婦を装い、集団から離れた場所に小屋を建て暮らす事に。
ところが、あきらめきれない他の男達の間で争いが絶えず、不審な行方不明者も2人出ている。
すでに日本は原爆投下され、終戦を迎えていたが、アナタハン島ではそんなことは知るよしもなかった。
米軍の船がやって来て拡声器で日本の敗戦を知らせても、島の者たちは、信じようともしなかった。

終戦から1年がたった昭和21年8月初旬のある日、男達はジャングルの中で墜落したB29の残骸から
2挺のピストルと70発の実弾を見つけた、また機体のジュラルミンから頑丈なナイフを作りだした。
男達が武器を手にしたこの時から、比嘉をめぐる殺し合いが公然と行われるようになった。
比嘉に近づくものは次々と不審な死を遂げて行くこととなる。
相手が殺されるたびに比嘉の新しい夫が会議によって決められるが、争いはおさまらず、
結局、「すべての原因」として彼女を処刑することが可決されてしまった。
「すぐ逃げろ。あさっての朝、おまえは殺される」…。
オオタニワタリという木の葉に鉛筆で書かれた密告が小屋に投げ込まれ、
自分の処刑を知った比嘉はジャングルに潜伏し、島からの脱出を図る。
そして、沖に船影が見えるとヤシの木に登り、着ていたワンピースを降って必死に助けを求める。
米国船「ミス・スージー」によって比嘉が救出されたのは逃亡から33日後、昭和25年6月23日だった。
これがきっかけとなり、1週間後、島に残った男達(生き残った)も米軍によって救出された。
結局、6年間に11人の人間が殺されてしまった。

◆戦後ブームになった「アナタハン事件」

帰国後の昭和27年、この事件が報じられると日本では空前の「アナタハン」ブームとなり、
比嘉さんのブロマイドが飛ぶように売れたそうです。
比嘉さんは銀座や浅草の劇場に立ち、映画にも出演し、その後は料亭の仲居などをして
昭和49年3月、脳腫瘍のため、52才で亡くなりました。
子供や孫に看取られ、穏やかな最後だったそうです。
行方がわからなくなり戦死したものとばかり思っていた最初の夫は、先に帰国し新しい家庭を築いていました。
彼はマラリアの後遺症で高熱を発しながら、訪ねた比嘉さんに、玄関先で涙ながらにわびたそうです。

徳永陽一郎

1953年10月7日、突如姿を消し、3日後、門司から届いた森川さん(実姉)あての
書留を最後に以後消息不明となる。
書留には「だまって出てごめんね。歩いてでも帰ってきます」と記されていた。

●徳永 陽一郎(18歳)^ 生年月日  :昭和10年(1935)1月14日
失踪年月日 :昭和28年(1953)10月7日

当時の身分 :染料店店員(配達)

当時の居住地:長崎県長崎市

失踪場所  :長崎市の家を出て

失踪当時の状況:
新しい仕事の話があり、履歴書を書いている途中だった。
履歴書に貼る写真を店に撮りに行く前に失踪した。10月7日に門司から書留が届く。
家族から借りていた1500円を返してきたもので
「いい仕事があった」
「歩いてでも帰ってきます」と書かれていた。
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